2015年 03月 17日
瀧口入道 |
母のアルバムを見ると、最初の2、3ページは普通のスナップ写真が貼ってあるのだが、
以降、突然綺麗な沢の写真が続く。その先に貼ってある写真に行きつくまでの、雰囲気作りであるかの如く、である。
沢の写真の先には、和服を着た、端正な顔立ち、佇まいの男性が大伸ばしで貼ってある。
父よりも年上の、知らない男性の写真をこんな風に演出までして、思い入れたっぷりに貼ってあることに、
子どもの私は幼いながらも違和感があった。私の知らない母の秘密なんだろうか。それは聞いてはいけないことなのではないだろうか。
しかし、子どもの潔癖さから、そのままにしておくこともできず、悩んだ挙句、ある日思い切って母に聞いてみた。
「この人、誰?」
すると母は、私のそんな一途に思いつめた気持ちをはぐらかすかのように、ちょっと恥ずかしそうに、でもとっても嬉しそうに答えた。
「”海老様”よ💛」
エビサマ?何だそりゃ。エビに様までつけて、このおじさんが海老様という名前だなんてふざけてる。
勇気を出して聞いたのに、キツネにつままれたような、でも「ワケアリ」ではなさそうな様子にちょっとほっとしたりもして。
それが、私の歌舞伎との出会いであった。
母は、若いころから十一代目團十郎(=現・海老蔵の祖父)の大ファンだったのだ。
では、その「生写真」はどうしたのかというと、当時、母の勤め先の食堂のおじさんが十一代目にとてもよく似ていて、
ある日雑誌か何かで十一代目團十郎のそっくりさんコンテストなるものがあったらしい。つまり、そんな企画があるくらい、
十一代目の人気はすごかったのだろう。で、母がその食堂のおじさんに「とても似ているから応募してみたら」と軽い気持ちで言ったところ、そのおじさんは本当に出場し、結果、見事に優勝、その特典として本人にご対面できたのだそうだ。その時に撮らせてもらった写真を「きっかけをくれたお礼に」もらったのだとか。
しかし、そんな母の影響を受けて私が歌舞伎に夢中になるまでには、二十数年を要した。
むしろ、最初は嫌いだった。
家で、母がテレビの歌舞伎中継を見始めると、「ああ、また歌舞伎か」と席を立つほどだった。
何がきっかけで興味を持ち始めたのか自分でもわからない。あんなに歌舞伎を嫌っていた私が、ある日
「歌舞伎、観てみようかな」と言うや否や、母はチケットを買ってきた。
初歌舞伎は家族4人で、国立劇場での「勧進帳」だった。松本幸四郎が弁慶役だった以外の配役はまったく覚えていない。
事前の、母からの説明は何もなかったが、クライマックスの、弁慶が主君義経の命を助けるために、何も書かれていない巻物を勧進帳であるかのように読み上げるところまできて、ああ、これがかつて母が何十回と私に話してくれた演目だったことに気づく。
と、ふっと隣の母を見ると、涙を流している。確かに勧進帳の話をするたびに、この場面でいつも泣けるのよね、とは聞いていたが、本当に、しかもこんなに涙を流すなんて!
母は感受性の爆弾を抱えているような人で、普段から映画やドラマでも、子どもの前でも構わずに感動して泣くので、慣れているはずである。
しかし、歌舞伎でもこんなに泣くのは、自分がそこまで理解が及ばなかったせいもあるが、我が母ながら、ちょっとした衝撃だった。初歌舞伎だったから、余計そう感じたのかもしれない。
しかし、もっと驚いたのは、終演後、「あー、でもやっぱり富樫は十一代目(團十郎)がイチバンね!」なんてけろっとして言っているのだから。
あんなに泣いていたのに・・・
しかし、その衝撃は好奇心に転じていった。母は食いしん坊の私のツボを押さえていて、歌舞伎座の3階のおでん屋さんがおいしいとか、開演前の3階のカレー屋さんでコーヒーを頼むと、もれなくビスケットがついてくるといったことで、何度となく連れて行ってくれた。最初はおでんがメインだった私も、いつの間にか気づいたら、一人でも見に行くようになるほどのめりこんでいた。
一時期はほぼ毎週のように通い、歌舞伎会のゴールド会員にまで上りつめた。好きな役者が出演する月は奮発して花道脇の席で、正にかぶりつきで観た。そうして翌日の仕事でも前日の夢冷めやらず、見積書にうっかり「是非ご検討のほど、よろしくお願い申し上げまする」と入力してしまったりした。
一度スイッチが入ると、寝ても覚めてもそのことが頭を占める。もっとどっぷり歌舞伎に浸りたい。
女の私が歌舞伎の世界に関わるにはどうしたらいいのかしら。
歌舞伎役者の妻を目指すほど、容姿には自信がない。
大道具、はたまた衣装だったら、一番接近できるチャンスかも!とは思うが、トロさと不器用さは自分が一番わかってる。
当時、十一代目(團十郎)の再来か、と言われ始めた、成長目覚ましい新之助(現・海老蔵)に、源氏物語の完訳を終えた瀬戸内寂聴が、
新作歌舞伎の脚本を書き下ろしたのが話題となった。
これだ。
今考えると、自分の才能も考えず、真剣にそう思った自分に呆れるが、当時はとにかく熱病にうなされていたような状態だったから、仕方ない。
しかし、どうやって勉強したらよいのか。歌舞伎は独特の台詞回しでもあり、そういったことを教えてくれる専門機関でもあればよいが、
思うように見つからない。
ならば、画家志望の画学生が、名画を模写するが如く、私もまずは歌舞伎の台本を書き写すところから始めるのがよいのではないか。
とにかく思いつめているので、そういった時の行動は早い。
職場の近所の図書館に古典名作歌舞伎の台本があったので、早速借りて、まずは短めの「傾城反魂香」から始めてみる。
これが予想以上に面白い。いつも耳にしている内容が、文字にすることによって、内容の理解が深まるのだ。
ヒット曲の歌詞がわかると「へえ、こういう内容の歌だったんだ」と思うのと似ている。
調子に乗って、「仮名手本忠臣蔵」の、一段から十一段まで全段書き写した。
達成感は味わえたが、所詮、熱病に過ぎなかったから、写し終えたところで、脚本家に、という志も消滅した。
ただ、脚本家になったらこの本を舞台化したい、というのは早くからあって、その実現の夢は未だにある。
高山樗牛の「瀧口入道」である。
あのうつくしい日本語の世界が、歌舞伎の世界でどのように再現されるのか、考えただけでもわくわくする。
キャスティングも主要の二人は決まっている。
瀧口は海老蔵、横笛に菊之助。
横笛が瀧口に会いに行く切ない場面は、自分の中ではすでにビジュアル化されている。
以降、突然綺麗な沢の写真が続く。その先に貼ってある写真に行きつくまでの、雰囲気作りであるかの如く、である。
沢の写真の先には、和服を着た、端正な顔立ち、佇まいの男性が大伸ばしで貼ってある。
父よりも年上の、知らない男性の写真をこんな風に演出までして、思い入れたっぷりに貼ってあることに、
子どもの私は幼いながらも違和感があった。私の知らない母の秘密なんだろうか。それは聞いてはいけないことなのではないだろうか。
しかし、子どもの潔癖さから、そのままにしておくこともできず、悩んだ挙句、ある日思い切って母に聞いてみた。
「この人、誰?」
すると母は、私のそんな一途に思いつめた気持ちをはぐらかすかのように、ちょっと恥ずかしそうに、でもとっても嬉しそうに答えた。
「”海老様”よ💛」
エビサマ?何だそりゃ。エビに様までつけて、このおじさんが海老様という名前だなんてふざけてる。
勇気を出して聞いたのに、キツネにつままれたような、でも「ワケアリ」ではなさそうな様子にちょっとほっとしたりもして。
それが、私の歌舞伎との出会いであった。
母は、若いころから十一代目團十郎(=現・海老蔵の祖父)の大ファンだったのだ。
では、その「生写真」はどうしたのかというと、当時、母の勤め先の食堂のおじさんが十一代目にとてもよく似ていて、
ある日雑誌か何かで十一代目團十郎のそっくりさんコンテストなるものがあったらしい。つまり、そんな企画があるくらい、
十一代目の人気はすごかったのだろう。で、母がその食堂のおじさんに「とても似ているから応募してみたら」と軽い気持ちで言ったところ、そのおじさんは本当に出場し、結果、見事に優勝、その特典として本人にご対面できたのだそうだ。その時に撮らせてもらった写真を「きっかけをくれたお礼に」もらったのだとか。
しかし、そんな母の影響を受けて私が歌舞伎に夢中になるまでには、二十数年を要した。
むしろ、最初は嫌いだった。
家で、母がテレビの歌舞伎中継を見始めると、「ああ、また歌舞伎か」と席を立つほどだった。
何がきっかけで興味を持ち始めたのか自分でもわからない。あんなに歌舞伎を嫌っていた私が、ある日
「歌舞伎、観てみようかな」と言うや否や、母はチケットを買ってきた。
初歌舞伎は家族4人で、国立劇場での「勧進帳」だった。松本幸四郎が弁慶役だった以外の配役はまったく覚えていない。
事前の、母からの説明は何もなかったが、クライマックスの、弁慶が主君義経の命を助けるために、何も書かれていない巻物を勧進帳であるかのように読み上げるところまできて、ああ、これがかつて母が何十回と私に話してくれた演目だったことに気づく。
と、ふっと隣の母を見ると、涙を流している。確かに勧進帳の話をするたびに、この場面でいつも泣けるのよね、とは聞いていたが、本当に、しかもこんなに涙を流すなんて!
母は感受性の爆弾を抱えているような人で、普段から映画やドラマでも、子どもの前でも構わずに感動して泣くので、慣れているはずである。
しかし、歌舞伎でもこんなに泣くのは、自分がそこまで理解が及ばなかったせいもあるが、我が母ながら、ちょっとした衝撃だった。初歌舞伎だったから、余計そう感じたのかもしれない。
しかし、もっと驚いたのは、終演後、「あー、でもやっぱり富樫は十一代目(團十郎)がイチバンね!」なんてけろっとして言っているのだから。
あんなに泣いていたのに・・・
しかし、その衝撃は好奇心に転じていった。母は食いしん坊の私のツボを押さえていて、歌舞伎座の3階のおでん屋さんがおいしいとか、開演前の3階のカレー屋さんでコーヒーを頼むと、もれなくビスケットがついてくるといったことで、何度となく連れて行ってくれた。最初はおでんがメインだった私も、いつの間にか気づいたら、一人でも見に行くようになるほどのめりこんでいた。
一時期はほぼ毎週のように通い、歌舞伎会のゴールド会員にまで上りつめた。好きな役者が出演する月は奮発して花道脇の席で、正にかぶりつきで観た。そうして翌日の仕事でも前日の夢冷めやらず、見積書にうっかり「是非ご検討のほど、よろしくお願い申し上げまする」と入力してしまったりした。
一度スイッチが入ると、寝ても覚めてもそのことが頭を占める。もっとどっぷり歌舞伎に浸りたい。
女の私が歌舞伎の世界に関わるにはどうしたらいいのかしら。
歌舞伎役者の妻を目指すほど、容姿には自信がない。
大道具、はたまた衣装だったら、一番接近できるチャンスかも!とは思うが、トロさと不器用さは自分が一番わかってる。
当時、十一代目(團十郎)の再来か、と言われ始めた、成長目覚ましい新之助(現・海老蔵)に、源氏物語の完訳を終えた瀬戸内寂聴が、
新作歌舞伎の脚本を書き下ろしたのが話題となった。
これだ。
今考えると、自分の才能も考えず、真剣にそう思った自分に呆れるが、当時はとにかく熱病にうなされていたような状態だったから、仕方ない。
しかし、どうやって勉強したらよいのか。歌舞伎は独特の台詞回しでもあり、そういったことを教えてくれる専門機関でもあればよいが、
思うように見つからない。
ならば、画家志望の画学生が、名画を模写するが如く、私もまずは歌舞伎の台本を書き写すところから始めるのがよいのではないか。
とにかく思いつめているので、そういった時の行動は早い。
職場の近所の図書館に古典名作歌舞伎の台本があったので、早速借りて、まずは短めの「傾城反魂香」から始めてみる。
これが予想以上に面白い。いつも耳にしている内容が、文字にすることによって、内容の理解が深まるのだ。
ヒット曲の歌詞がわかると「へえ、こういう内容の歌だったんだ」と思うのと似ている。
調子に乗って、「仮名手本忠臣蔵」の、一段から十一段まで全段書き写した。
達成感は味わえたが、所詮、熱病に過ぎなかったから、写し終えたところで、脚本家に、という志も消滅した。
ただ、脚本家になったらこの本を舞台化したい、というのは早くからあって、その実現の夢は未だにある。
高山樗牛の「瀧口入道」である。
あのうつくしい日本語の世界が、歌舞伎の世界でどのように再現されるのか、考えただけでもわくわくする。
キャスティングも主要の二人は決まっている。
瀧口は海老蔵、横笛に菊之助。
横笛が瀧口に会いに行く切ない場面は、自分の中ではすでにビジュアル化されている。
by rio-caminho_tanmi
| 2015-03-17 00:56
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