2015年 01月 03日
淡味 |
四杯目のお茶以降はもう出がらしで、かすかに色が付いているだけ。
千利休は、この四杯目以降のお茶、甘みもなく、渋みもなく、苦みもない、
かすかに色が付いているだけの茶の味を「淡味(たんみ)」と呼びました。
「淡々と」の「淡」です。淡々とは、”水が静かに揺れ動く”という意味で、
静かに安定している状態です。この淡味は、甘さも、渋さも、苦みもなくなって、
ただのお湯、白湯に近い状態です。利休は、「この淡味のよさがわからない限り、
お茶は永久に理解ができない」と言っています。
利休は、出がらしのお茶のおいしさがわかるようになれと言った。
じつはこの出がらしのお茶のおいしさとは、「感謝」です。茶道は、お茶を
いかにおいしく淹れるか、いかにおいしく味わうかの道ですが、
それを甘い、渋いと言っている間は、まだ本質がわからない。
四杯目以降の出がらしで、淡味のお茶をいかに味わえるか、
それをどう喜びとすることができるか、つまり感謝することができるか。
そこで、本当のおもしろさがわかる。(中略)
これを人生に置きかえていえば、朝起きて、仕事をして、帰ってきて、
夕食を食べて、テレビを見て、寝て、また翌朝が来て、また仕事をして、
また夕食を食べて・・・・・・とそういう日々が繰り返されるなかに、
人生のおもしろさや、幸せや、贅沢感というのがある。
淡々と生きていくなかにこそある。人生を、やれ楽しいの愉快のとはしゃいで、
「どこそこに行ったから面白かった」「あそこに行ったらステキだった」
などと言っている限り、本当の人生はわからない。淡味がわからない限り、
人生は永久にわからない、ということです。
「人生の本質は、淡味にあり」です。
「淡々と生きる」ことです。
(小林正観著「淡々と生きる」より一部抜粋)
千利休は、この四杯目以降のお茶、甘みもなく、渋みもなく、苦みもない、
かすかに色が付いているだけの茶の味を「淡味(たんみ)」と呼びました。
「淡々と」の「淡」です。淡々とは、”水が静かに揺れ動く”という意味で、
静かに安定している状態です。この淡味は、甘さも、渋さも、苦みもなくなって、
ただのお湯、白湯に近い状態です。利休は、「この淡味のよさがわからない限り、
お茶は永久に理解ができない」と言っています。
利休は、出がらしのお茶のおいしさがわかるようになれと言った。
じつはこの出がらしのお茶のおいしさとは、「感謝」です。茶道は、お茶を
いかにおいしく淹れるか、いかにおいしく味わうかの道ですが、
それを甘い、渋いと言っている間は、まだ本質がわからない。
四杯目以降の出がらしで、淡味のお茶をいかに味わえるか、
それをどう喜びとすることができるか、つまり感謝することができるか。
そこで、本当のおもしろさがわかる。(中略)
これを人生に置きかえていえば、朝起きて、仕事をして、帰ってきて、
夕食を食べて、テレビを見て、寝て、また翌朝が来て、また仕事をして、
また夕食を食べて・・・・・・とそういう日々が繰り返されるなかに、
人生のおもしろさや、幸せや、贅沢感というのがある。
淡々と生きていくなかにこそある。人生を、やれ楽しいの愉快のとはしゃいで、
「どこそこに行ったから面白かった」「あそこに行ったらステキだった」
などと言っている限り、本当の人生はわからない。淡味がわからない限り、
人生は永久にわからない、ということです。
「人生の本質は、淡味にあり」です。
「淡々と生きる」ことです。
(小林正観著「淡々と生きる」より一部抜粋)
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by rio-caminho_tanmi
| 2015-01-03 16:31
| 本